THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio THE EUGENE Studio

Series of White Painting

2017–, Canvas.

Series of White Painting

2017–, Canvas.

展示されているカンヴァスには何も描かれていませんが、ここには100人程の人びとの接吻が刻印されています。この作品は街往く人に声を掛けること、あるいは特定のコミュニティ単位で行われ、現在、アメリカ、メキシコ、イタリア、スペイン等で行われています。この試みは、国家や宗教、種族、組織などの大きな単位、グローバルレベルでの分断、例えばブレグジット、国境の壁、難民問題などの状況とは対照的にも見えます。「ホワイト・ペインティング」はシリーズの通称であり、本作には一点づつ、接吻をした人々の名前が連なったものがタイトルとなっています。

(『THE EUGENE Studio 1/2 Century later.』配布ハンドアウト(資生堂ギャラリー)より)

“ホワイト・ペインティングシリーズは、愛と記憶にまつわる移動式の礼拝建築である……そしてモノクローム絵画を、アイコニックでありながらも、「ポータル(場)」とモノの中間地点に位置する不確かな場所へと戻す存在なのだ。”

オクトーバー誌などに寄稿する批評家 ディヴィッド・ギアーズ「モノクロームの中の情念」にて

論考

モノクロームのなかの情念

ディヴィッド・ギアーズ (美術批評家)

論考「モノクロームのなかの情念」
ディヴィッド・ギアーズ (美術批評家)

図録「THE EUGENE Studio 1/2 Century Later」(資生堂ギャラリー、2017) に収録

デイビッド・ギアーズ

ディヴィッド・ギアーズはニューヨークを拠点に活動する美術批評家。著作は『October』、『Frieze』、『Fillip』、『BOMB』、『The Brooklyn Rail』、『The Third Rail Quarterly』を始めとする出版物に掲載されている。絵画、政治、テクノロジーの収束を主眼に置く近年の論考には、「Neo-Modern」(October No. 139, Winter 2012)や「Formal Affairs」(Frieze, No. 169, March 2015)、「Acts of Recognition」(Frieze, No. 191 November–December 2017)などがある。



“1919年、カジミール・マレーヴィチは彼の作品である『白の上の白』に寄せて「私はこれまで色の制約という青い被覆を引き裂いてきた。」と書いている。そして、「白い自由の奈落を泳げば、無限は目の前にある。」*1 と続けた。あるいは、アレクサンドル・ロトチェンコは、彼の極めて重要な作品である『三部作 なめらかな色 赤・青・黄色』(1921年)を展示した際に、「私は絵画を、その論理的な結論まで還元し、赤、青、黄色の3つのキャンバスを展示した。そして、全てが終わったということを認めよう……全ての平面は平面であり、そこに表象されるものは何もないのだ。」*2 と大胆に宣言した。

Fig.1 Malevich, Kazimir (1878-1935): Suprematist Composition: White on White, 1918. New York, Museum of Modern Art (MoMA). Oil on canvas, 31 1/4 x 31 1/4’ (79.4 x 79.4 cm). Acquisition confirmed in 1999 by agreement with the Estate of Kazimir Malevich and made possible with funds from the Mrs. John Hay Whitney Bequest (by exchange). 817.1935© 2019. Digital image, The Museum of Modern Art, New York/Scala, Florence

この対立の核心には、無限への入り口とも、絶対的な障壁とも解釈できる、モノクロームの決定的要因——情念——が存在する。少なくとも、アメリカにおける文脈では、今のところの論争は後者が勝利を収めているように見られる。つまり、モノクロームを物質主義的な見方に固定してしまったのだ。しかし、——例えば、ロトチェンコからマレーヴィチへと——もう一方の側へ赴くことにはどのような意味があるのだろうか。あるいは、いっそうのこと、この両者の間に居座り、それに従って、持ち運び可能「かつ」拡張されたもの、極めて物質的であり、「さらに」情動的に構成されたネットワークから生まれ出たものであるという絵画の超越的な前提を映し出すのはどうだろうか。この問いは、一見すると何の造作もないモノクロームに見える、3枚1組のTHE EUGENE Studioの『White Painting』(2017)の複雑さを告げることとなる。

Fig.2 Pure Red Color (Chistyi krasnyi tsvet), Pure Yellow Color (Chistyi zheltyi tsvet), Pure Blue Color (Chistyi sinii tsvet). 1921. Oil on canvas. Each panel, 24 5/8 x 20 11/16” (62.5 x 52.5 cm). A. Rodchenko and V. Stepanova Archive, Moscow

[Left]Series of White Painting in Los Angeles, 2017, Still from video, Dimensions variable.
[Right] “A Russian Orthodox pilgrim kissing a religious icon at the Church of Saint Alexander Nevsky in the Christian quarter old city East Jerusalem Israel.” Contributed by Eddie Gerald / Alamy Stock Photo

Series of White Painting “Papaya, Loys, Sammi, Scot, Sam, Daniel, Shirley, Autumn, Carlos, Philip, Stephanie, William, Thomas, Peeter, Ellen, Joann, Allen, Thomy, Gilad, Galia, Torrey, Musetn, Oshman, Pc, Katrine, Nick, Rebecca, Willy, Kevin, M.phillip, Lorenzo, Bil, Benny, Reonard, Heal” 2017, Canvas, 450×450mm

Series of White Painting “Danniel, Sofi, Alexsandre, Rebecca, Jess, Lundell, Georg, Matte, Hanna, Paul, Yousef, Casaline, Natalia, Henley, Agness, Dasun, Jillian, V.t, Zach, Laurence, Hendry, Ansel, Sammantha, Curbera, Kea, Ronald, Wally, Ashleigh, Albertan, Ken, Merritt, Pascal, Tasha, Launa, V., Anthony, Jenny, Samuel, Loo Family, Venn, Heather, Richard, Max, Dinorah, Catherine, Mckaen, Klasen, Lyden, Sammy, Charlotte, Mackey, Loyola, Gaedel, Vicky, Aaron, Kris, Cathy, Monica, Natasha, Jimmel, Melany, Vince, Lee, Jamie, Stephanie, Brianna, Witte, Stacy, Hi, Yuta, Ken, Julia, Germany Vale, Danne, Juelle, Dickson, Odemar, Kley, G., Max, Nancy, Ricard, Horrobin, Rodmy, Kris, Sally, Peter, Julien, Erick, Austin, Kale, Paul, Sharry, Jim, Pascal, Oddsson, Carrie, Meary, Benny” 2017, Canvas, 915×915mm

Series of White Painting [left]“Lena, Perez, Sarada, Campr, Costn, Peuoda, Ambrosini, Scalose, Soldani, Simo, Prosperi, Magl”, [center]“Marco, Matteo, Anion, Mria, Daniele, Keite, Yves, Sherry, Salman, Uehlinger, Sluggers, Kate, Velázquez, Lomeo, Uldall”, [right]“Aider Weber, Irish Dixon, Amanda Daronie, Nihakim, Stephany, Jessica, Magar Mead, Scpluq Ruis, Davie, Alcndra, Adori Law, Alsalobs, Robert Moore, Diana , Monica, Emily, Jolio, Ara, Joseph Vofrechen, Claim, Clone Stone, Kalim Hamari, Alex Harman, Seam Manor, Xee Lor, Melissa Yangl”, 2017, Canvas, 450×450mm

“Lena, Perez, Sarada, Campr, Costn, Peuoda, Ambrosini, Scalose, Soldani, Simo, Prosperi, Magl”, 2017, Canvas, 450×450mm

20世紀における変化に富んだモノクロームの歴史は、この課題に息吹を吹き込む仔細な営みの足跡を残している。20世紀の東アジア美術には長く続くモノクロームの存在——50年代から60年代に起きた具体、あるいはその後のモノ派、もしくは70年代から現在まで続く韓国の単色画、様々な中国のアート——があるにも関わらず、THE EUGENE Studioの『トリニティ』もまた、キリスト教における図像学やミニマリスト、コンセプチュアルアートに組み込まれた西洋的な解釈へと誘う。こうした系譜は、宗教的なものから自立したアート作品としての転換を前景化し、そこから現象学的な状態、その延長線上にある言語、外的記号の枠組み、そして、制度的な構造による構成を探求する。

すなわち、クレメント・グリーンバーグの視覚の理論が絵画平面を色で覆うことで、その特質を洗練することを要求するのであれば——カラーフィールドは作品の幻想性や持ち運べるという性質を保ちつつも、視覚との審美的な邂逅を破綻させ——カール・アンドレやドナルド・ジャッド、その他のアメリカのミニマリストたちはその営みを文字通り、アート作品を単なる物質まで還元させることであると解釈している。

こうした主権の綱引き争いの中で、フランク・ステラは当初、ミニマリズムの先駆者として登場し(そして、最終的には脱落した)、超越的な「優雅さ」を前提としたモダニストの色平面を、私たちの陳腐な存在を掃いて捨てるような、多くの工業製のモジュール式のオブジェクトにも似た冷淡なモノへと変えてしまった。*3

[Left] Fig.3 Stella, Frank (b. 1936): The Marriage of Reason and Squalor II, 1959. New York, Museum of Modern Art (MoMA). Enamel on canvas, 7’ 6 3/4’ x 11’ 3/4’ (230.5 x 337.2 cm). Larry Aldrich Foundation Fund. 725.1959 © 2019. Digital image, The Museum of Modern Art, New York/Scala, Florence [Right] Fig.4 Robert Rauschenberg, White Painting [three panel], 1951

これらの闘争の最前線にいたラウシェンバーグにとって、『ホワイトペインティング』(1951)も同様に、抽象表現主義の前例に対する究極の反撃であり、それは、ニューヨークの大げさな絵画の身体性を、作家自身のよりも鑑賞者の身体を記録する、滑らかで、いとも簡単に真似できそうな平面に置き換えるものであった。実際、ラウシェンバーグの白い絵画群は複製されることを目的としており、そして、これまでの展覧会において、サイ・トゥオンブリーやブライス・マーデン、高橋尚愛、ダリル・ポトロフのような作家たちによって実際になされてきた。最初に表現されたように、彼の前世代の抽象表現主義の宇宙的な用語においては、「(1つの白は1つの神のように)キャンバスは、……何もないが故に想像力に満たされ、点は始まりと終わりを循環する」。そして、ラウシェンバーグは数年後、散文的なミニマリストの言語によって、それらを統合した。何もない裏面から、ジョン・ケージが「光や埃、粒子のための着地帯」*4 と呼んだ有名な白い一枚板へと遠ざかるために、「この白い絵画はそれらの届く範囲内での活動に対応する開かれた作品である」と1968年に彼は述べた。

ロバート・ライマンの手の中では、モノクロームは別の価値の引き下げを被ることとなった。「彼の絵画では……極めて機械的な運動をする筆さばきの痕跡を見て取ることができる」、「表面がただ単純に塗られるまで、次々に、左から右へ、列から列へと明白に並べられているかのようだ」*5 と批評家のダグラス・クリンプはライマンの制作過程を表現している。彼や後の美術史家であるイヴ=アラン・ボワにとって、ライマンは絵画に写真における機械的な動きに近しいものをもたらしたのであった。その目的は、絵画を陳腐化させ、超越的な権限の取り消し、剥奪を行い、それでも信奉する者たちへゲルハルト・リヒターが言うところの「純粋な愚かさ」*6 としてその主張を晒すことであった。

[Left] Fig.5 Ryman, Robert (b. 1930): Twin, 1966. Museum of Modern Art (MoMA). Oil on cotton, 6' 3 3/4' x 6' 3 7/8' (192.4 x 192.6 cm). Charles and Anita Blatt Fund and purchase. Acc. no.: 691.1971. ©2019 Digital image, The Museum of Modern Art, New York/Scala, Florence [Right] Fig.6 Tanaka Atsuko, Tokyo Work (1955), 2007 reconstruction at the documenta 12, Kassel, Germany. Rayon, 1000x1000cm.

しかし、異なるクエッションがTHE EUGENE Studioの『White Painting』シリーズと、一見シンプルに見えるその表面に、誰にも気づかれることなく潜んでいる。この作品はラウシェンバーグのモノクロームのように、慎ましく、何の偶然性やイメージを残すことなく、ただ何もない空虚な様相を呈している。しかし、ジョン・ケージに導かれたラウシェンバーグの実践のように、これらの作品もまた、アメリカ、メキシコ、台湾、イタリア、スペインで600人以上の熱心な参加者によって繰り返し行われたパフォーマンスを内包している。それぞれの場所で、THE EUGENE Studioはモノクロームを公共の空間に設置し、道ゆく人たちに、まるで愛する人や、あるいはキリスト教のアイコンへ接吻をするがごとく、絵画へ接吻をしてもらうよう依頼している。その後、ほとんどの参加者達は愛に関する質問を受け、それぞれが自身の体験を隠すことなく話している。こうした全ての儀式はiPhoneによって撮影されており、収められた映像は同じ機器で作品の横で展示される。つまり、キャンバスを移動式の愛と記憶にまつわる礼拝建築へと変容させているのである。

2007年に開催された「ドクメンタ12」で再展示された、周囲環境の一時的な影響を捉える、文脈に影響を受けやすい田中敦子の『Tokyo Work』(1955)や、ギャラリーの鑑賞者の影を抱合するラウシェンバーグのモノクロームのように、この作品もまた、プロジェクトに参加した人々の痕跡を指し示す。つまり、彼らは礼拝者との接触を通じて、染み込まされる宗教的な慣習のように神聖さがキャンバスに込められているのだ。同時に、接吻をするという行為は裸眼では捉えることはできない身振りの領域を含むブラッシュ・ストロークとしての役割も果たしている。その際に、『White Painting』シリーズは、非物質化と「見えないアート」の数多くの事例を想起させる。例えば神秘的に触発されたイヴ・クラインが、「非物質的な絵画的感覚」を表現するために捧げた『Void Room』(1961)や、ダニエル・ビュランらとその他のアーティスト達が1967年にパリ美術館の誰も入れない部屋に絵画を展示し、その作品を言語的に記述したリーフレットを配布する*7 といった身振りにおけるコンセプチュアルな風刺がそうだ。あるいは、「紙を凝視すること」をメディウムとして喧伝するトム・フリードマンの『1000 Hours of Staring』(1992–97)や、プロフェッショナルな魔女に呪いをかけてもらった目に見えない11インチの球体を据えた、何もない台である『Untitled (A Curse)』(1992)などのより近年の諧謔を思い起こす人もいるだろう。

THE EUGENE Studioのプロジェクトは当初、この系譜に収斂するかのように思われたが、その不可視性を微視的な規模で読み解くのであれば、そこには参加者たちのDNAの痕跡が筆跡として残っていると考えることもできる。さらに、具現化を再び主張する間に、このプロジェクトはモノクロームを超越的な窓の状態へと戻し、敬虔な行いの価値の引き下げを行うことを拒絶する。より正確に言えば、『White Painting』シリーズは、コミュニティから生まれ、それを築き上げるものとしての信仰のダイナミクスを統合することで敬意を持って礼拝の拡張的な性質を明らかにする。貨幣や宗教的慣習、商品へのフェティシズム、さらにはアート作品まで——これら全てはそれを信じるもの達によって貴重であるとされており——中心にある物質は交換可能であり続け、空虚を模る。さらに、神秘性の深みを吹き込まれたモノたちは、その表象も同様に、変容や、夢中にさせるだけでなく、癒しすらもたらす力を有している。

Series of White Painting in Los Angeles, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Mexico, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Los Angeles, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Mexico, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Mexico, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Los Angeles, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Los Angeles, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Roma, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Los Angeles, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Los Angeles, 2017, Still from video, Dimensions variable.

Series of White Painting in Los Angeles, 2017, Still from video, Dimensions variable.

権力、名声、植え付けられた信仰といった「領域」を通じて体系的に構成されたアート作品というマルクスや社会学者のピエール・ブルデューの解釈の反響を思い浮かべる一方で、こうした枠組みは絵画における中心的な原理である「信仰」へと光を当てる。*8 30年以上前に、アーティストのトーマス・ローソンが、急進的な画家たちへ「最後の逃避行」を呼びかけた時に、「全ては信仰への問いかけに要約される」と記した。*9 ローソンにとって、こうした信仰はカモフラージュを通じて、絵画を西洋の特権的メディウムとして死んだものとすることによって、無力化する必要があった。「カモフラージュとして怪しまれない媒体を用いるという「詭弁を用いて」、「急進的なアーティストは鑑賞者の確信を取り除くために、それを操らなければいけない。」*10 と彼は1981年に書き残したのだ。依然として、アメリカやヨーロッパにおいて、絵画にまつわる言説を捉える誘惑であり争点である信仰という用語は、現在においても微塵も変化していないのである。

ダグラス・クリンプにとって、絵画を建築的な環境から引き離すことは、美術史という学問分野を打ち立てる行為であった——つまり、その行為とは、全ての宗教的な敬虔さのエネルギーを、祭壇画から自立したアート作品へと注ぐことであった。*11 それ故、ラファエロの代わりにマーク・ロスコが、ミケランジェロの代わりには、バーネット・ニューマンがいるのだ。それ以来、多くの批評家とアーティストたちは、絵画の単一での、そして、実際的な力を定義するために苦心してきた。それは、存在、技巧、アーティストの確固たる「信念」、あるいは、全く中身のない表面にすら自分自身を投影したいという私たちの願望、それらのうちのどこにあるのだろうか。*12 これこそが、モノクロームの誘惑であり、美術史家のトーマス・マクェヴィリーが「存在の根底の象徴であり、根底と統合されることへの招待の両方」と表現したものである。あるいは、「モノクロームの絵画はおそらく」、「20世紀に作られた唯一重要な宗教イコンであり 、祭壇の高みへと至る単色の広がりであると共に、崇拝と超越的な暗示のような静けさの中で 、信者たちによって熱い視線を注がれる。」*13

過去10年、絵画とその拡張された形態は大規模な復活を経験し、モノクロームもその中にある。モノクロームを制作し、ニューヨークで個展を開催したアーティストの一応のリストだけでも、タウバ・オーエルバッハ、ジョー・ブラッドレー、パク・ソボ、ヘンリー・コダス、ポール・コワン、サム・フォールズ、ミシェル・グラブナー、マーク・グロッチャン、ウェイド・ガイトン、セルゲイ・ジェンセン、ジェニー・C・ジョーンズ、ジェイコブ・カセイ、イミ・クネーベル、ユタ・コータ、グレン・リゴン、スコット・ライアル、オリヴィエ・モセ、オスカー・ムリーリョ、サム・モイヤー、ステファン・プリーナ、ジュリア・ロンメル、ジョシュア・スミス、ルドルフ・スティンゲル、チェイニー・トンプソン、そしてローズマリー・トロッケルがいる。

[Left] Fig.7 Cheyney Thompson, Somewhere Some Pictures Sometimes, September 7—October 21 Installation on September 7, 2017 [Right] Fig.8 American Artist, screen capture of A Refusal, 2015-2016, Online Performance.

“Marco, Matteo, Anion, Mria, Daniele, Keite, Yves, Sherry, Salman, Uehlinger, Sluggers, Kate, Velázquez, Lomeo, Uldall”, 2017, Canvas, 450×450mm

“Aider Weber, Irish Dixon, Amanda Daronie, Nihakim, Stephany, Jessica, Magar Mead, Scpluq Ruis, Davie, Alcndra, Adori Law, Alsalobs, Robert Moore, Diana , Monica, Emily, Jolio, Ara, Joseph Vofrechen, Claim, Clone Stone, Kalim Hamari, Alex Harman, Seam Manor, Xee Lor, Melissa Yangl”, 2017, Canvas, 450×450mm

“Jabaley, Hrick, Eanfrith, Maaike, Andrew, Abel, Makohejiri, Cody, Miles, Stewvie, Barney, Craig, Meredith, Philip, Sandy, Darryl, Ernest, Hadley, Toby, William, Mick, Nigel, Pat, Desmond, Emmanuel, Giles, Adrain, Alfie, Natasha, Shelly, Beyeler, Mably, Theo, Aleiudo, Faneca, Saalmon, Cadelo, Kacelnik, Biriani, Shapely, Faree, Cawly, Sailer, Dansel, Ghidini, Bhola, Nachtigall, Moby” 2017, Canvas, 915x915mm

コンテンポラリーアートにおける、世俗から離れた、厳格な環境の中においては、そうした弱さを見せることは困難であり、そのため多くの近年の抽象画において作家たちは、それをアイロニーや、理性の冷ややかな除去の背後、あるいはそれ以外の方法によって隠蔽をしようと試みてきた。他の者は、絵画の価値を下げることにより、弱さを見せることを卑下してきた。例えば、ジョシュア・スミスはモノクロームを生活用品のように扱い、オスカー・ムリーリョは大量に捨てられた防水シートのように絵画を吊るしたり、積み上げたりしている。あるいは、タウバ・オーエルバッハの作品やウェイド・ガイトンのエプソンのプリンターで出力されたモノクローム、もしくは、スコット・ライアルのかすかに玉虫色のキャンバスに明らかに現れているような、写真を指標するような手続きを用いることで情動を拡散する取り組みをも挙げられるだろう。

また、THE EUGENE Studioのように、多くのアーティスト達はペインティングを科学技術の影響を受けてネットワークの領域へと収斂させようとしている。チェイニー・トンプソンの最近の作品では、モノクロームはアルゴリズムの配列に支配されており、顔料の総量はランダムウォークのアルゴリズムによって決定され——こうしたエコロジー、心理学、コンピューター・サイエンス、経済学といった様々な領域を使用し——、ギャラリー内のシフトの配置も生体認証で保護されたタイムカードで決定される。それもまた、アーティストによって作られ、ギャラリーのスタッフは毎日打刻するのだ。ピーター・スクールワースの『Model as Painting』シリーズ(2016–2018)では、彼の複雑なプロセスの記念碑として、救済 に基づいた比喩的なモノクロームを制作し ている。最近では、コレクティブにバーチャル 上のユートピアの園を作っているアヴェリー・シンガーとアレクサンダー・カーバーと協業し、それぞれの場所に対応する一連の絵画を制作している。他の作品同様、スクールワースのハイブリッドなタブローはデジタルとアナログの領域に等しく留まり、私たちの仲介された「一度離れた」*15 生活の中に、ネットワークの存在を絶えず刻み込みながらも、その両者の不可分性を主張している。『A Refusal』(2015–2016) という、American Artistの作った作品は驚くべきことではない——彼はアイデンティティの否定に並行して合法的に名前を変えている。この作品では、1年に渡る彼のソーシャルメディア上でのメッセージを覆い隠すため、青いモノクロームが配置されており、それぞれの投稿は、ロトチェンコの『滑らかな色 青』(1921)や映画のブルースクリーンを想起させる何も書かれていないデジタルな四角によって意味をなさなくなっている。

デジタルと対をなすものを考えた時、ジェシカ・ディキンソンの作業することだけに絞り込み、抉り出されたような表面、あるいは、サム・モイヤーの石を積み上げた、彫刻をペインティングに回収するような作品のように、モノクロームは完全にアナログな用語として再び主張されていることに気づく。ジュリア・ロンメルの作品では、ペインティングはしばしば引き伸ばされ、正面、横、後ろと塗られ、再び大きなフォーマット上に引き伸ばされる。すると今度はその中心には、色彩豊かな幾何学的な模様が生み出されるが、それは何であろうモノクロームなのである。私たちがそれをより触感的で動作を具現化させたもの、あるいはニュートラルな反復であると捉えようとしても、これらすべての抽象と抽象化しようとする戦略は作家の弱さを昇華し、置き換え、もしくは隠しつつも、私たちの絵画への感情的な要求を引きずり出す。

Fig.9 Julia Rommel, Around Woman, 2013. Oil on linen, 77 3/4 × 61 in, 197.5 × 154.9 cm.

しかし、1つだけ、皮肉にも自発的な感情を誘発する仲介された場所を選び出し、人々がこの弱さを臆面もなく見せる場所がある。それは、多くのブロードキャスト上での自白、憧れ、ファンサイト、そしてチャットルームなどのインターネットだ。今日では、YouTubeやインスタグラムのようなオンライン・プラットフォームにログオンし、検閲されていない表明やサプライズの記録、何かを初めて手にした時の体験、分析、反応、恋に落ちる様を目撃することは珍しいことではない。こうした私たちのデジタル上での生活の議事録で構成される感情の空間は、私たちの情動を利用するも、感情をしばしばあらかじめ用意し、誇張された、非人道的な方法で統合するグローバル化された活動空間や大国への鋭い対比となる。実際、綺麗に装飾されたスペクタクルやネットワーク上のリアリティショーと比較すると、ヒト・スタヤルがジガ・ヴェルトフを想起しながら激賞した開放的な潜在性として、インターネットは「マイナーな」情念とある種の「視覚的な結びつき」に満たされている。*16

これこそが、ペインティングを再び集団の信仰と個人の情動の表象へと据えながらも、モダニストのアイコンからウェブを指し示すTHE EUGENE Studioの『White Painting “Trinity”』の根底に横たわる愛である。モダニズムの以前の偉大さを取り戻そうと模索するコンセプチュアル・アートの皮肉めいた系譜とも、ゾンビの価値の引き下げとも、より旧来的な抽象画とも異なり、シニカルに引き下げるのでもなければ、言葉では表現できない記号として神秘化されてもいない、愛と信仰の2対が結びついたペインティングが存在する。むしろそれは、それぞれの段階での共感者の集まりを形成する循環のプロダクトというありのままの姿で晒されている。多くのファン・コミュニティのオンライン上や実際の場所のように、このコミュニティは、1つの場所の周りに感情的に集まる個人によって形成される情動的な結びつきで構成されているのだ。

THE EUGENE Studioが重要な会合の場所として選んだペインティングは、超越的なものでも、神聖かつ具体化されたものでもない、宗教的要素を取り除かれた人間としての愛というメディウムの現代の役割を強調する。そうすることで、——それはまるで、一度持ち主の情念を帯びると、無限となる全ての物質的な存在のように——『White Painting』シリーズは、モノクロームをアイコニックでありながらも、「ポータル」とモノの中間地点に位置する不確かな場所へと戻すのだ。

注釈

1. See Kazimir Malevich, “Non-Objective Art and Suprematism” (1919), Art in Theory 1900–1990: An Anthology of Changing Ideas, eds. Charles Harrison and Paul Wood (Oxford: Blackwell Publishers, 1992), p. 292.

2. See Aleksandr Rodchenko, “The Death of Painting,” Museum of Modern Art, https://www.moma.org/interactives/exhibitions/1998/rodchenko/texts/death_of_painting.html

3. See Michael Fried’s “Art and Objecthood” (1967). In this seminal piece attacking Minimalism—what Fried calls literalism—he defends the transportive qualities of the autonomous artwork articulated as presentness. “We are all literalists most or all of our lives,” Fried famously wrote, “Presentness is grace.” Art in Theory 1900–1990: An Anthology of Changing Ideas, eds. Charles Harrison and Paul Wood (Oxford: Blackwell Publishers, 1992), p. 832. Originally published in Artforum, Summer 1967.

4. Lawrence Alloway, Robert Rauschenberg (National Collection of Fine Arts, Smithsonian Institution, 1976), p. 3. https://www.moma.org/documents/moma_catalogue_2392_300062510.pdf

5. Douglas Crimp, “The End of Painting,” October 16 (Spring 1981), p. 77.

6. Ibid, p. 73.

7. For more on this, see Thomas McEvilley, The Exile’s Return: Towards as Redefinition of Painting in the Post-Modern Era (Cambridge University Press 1993), p. 55.

8. See Pierre Bourdieu, The Field of Cultural Production, ed. Randall Johnson (Columbia University Press 1993).

9. See Thomas Lawson, “Last Exit: Painting” in Theories of Contemporary Art, ed. Richard Hertz (New Jersey, Prentice-Hall, 1985), p. 143. Originally published in Artforum (October 1981).

10. Ibid, p 152.

11. Douglas Crimp, “The End of Painting,” October 16 (Spring 1981), p. 80-81.

12. I borrow this term from Michael Fried. See, again, his “Art and Objecthood” (1967), Art in Theory 1900–1990: An Anthology of Changing Ideas, eds. Charles Harrison and Paul Wood (Oxford: Blackwell Publishers, 1992), p. 832.

13. Thomas McEvilley, The Exile’s Return: Towards as Redefinition of Painting in the Post-Modern Era (Cambridge University Press 1993), p. 51.

14. As Benjamin writes, “The person we look at, or who feels he is being looked at, looks at us in turn. To perceive the aura of an object we look at means to invest it with the ability to look at us in return.” See Walter Benjamin, “On Some Motifs in Baudelaire” (1939), in Illuminations, trans. Harry Zohn (New York: Schocken Books, 1977), p. 188. Also see Hal Foster, The Return of the Real (MIT Press 1996), p. 267.

15. See Pieter Schoolwerth, “Depicting the World ‘Once Removed,’” lecture, VCS Art in the First-Person Lecture Series, School of Visual Arts, December 4, 2017, https://www.youtube.com/watch?v=qLM3MTJ5uSM.

16. See Hito Steyerl, “In Defense of the Poor Image,” e-flux, Journal #10, November 2009, https://www.e-flux.com/journal/10/61362/in-defense-of-the-poor-image/.

“ーーマレーヴィチの『黒の正方形』は、カンヴァスという物質的なメディウム自体に美学的に解釈可能な様々な要素が集約しているのだが、『ホワイト・ペインティング』はといえば、カンヴァスという物質的なメディウムがメディウム自体の外側の要素をともない、現実世界の日常性へとこの作品をつないでいく鍵となっている。…『ホワイト・ペインティング』については、こうした「絵画」自体の外側(現実世界の日常性)のほうへと直接のつながりをもつ性格がこの作品の今日性なのであろう。”

「つながりの『アート』のほうへ」にて
伊藤 賢一朗(資生堂ギャラリーキュレーター)

詳細はこちら

 

“ーー私たちが「十分敏感であれば」――『ホワイト・ペインティング』に付着した唾液やDNAやウィルス、あるいは埃、微妙な凹凸や傷といったものたちを認識できるとすれば、『ホワイト・ペインティング』外の世界の認識は恐るべきカオスとなっているのではないかということである。全てが高解像度化してく現代の社会環境下(そしてその反動・自己防御としての極端な認識の低解像度化)において、『ホワイト・ペインティング』の作品を基礎づける条件は極めて今日的問いを含んでいると言えるだろう。

「『1/2 Century later.』——コンセプチュアル・アートの場合」
長谷川 新(インディペント・キュレーター)

詳細を読む