Series of White Painting
2017, Canvas.

 

“ホワイト・ペインティングシリーズは、愛と記憶にまつわる移動式の礼拝建築である……
そしてモノクローム絵画を、アイコニックでありながらも、「ポータル(場)」とモノの中間地点に位置する不確かな場所へと戻す存在なのだ。”

ディヴィッド・ギアーズ(オクトーバー誌などに寄稿する批評家)「モノクロームの中の情念」にて

 

“マレーヴィチの『黒の正方形』は、カンヴァスという物質的なメディウム自体に美学的に解釈可能な様々な要素が集約しているのだが、『ホワイト・ペインティング』はといえば、カンヴァスという物質的なメディウムがメディウム自体の外側の要素をともない、現実世界の日常性へとこの作品をつないでいく鍵となっている。…『ホワイト・ペインティング』については、こうした「絵画」自体の外側(現実世界の日常性)のほうへと直接のつながりをもつ性格がこの作品の今日性なのであろう。”

伊藤 賢一朗(資生堂ギャラリーキュレーター)「つながりの『アート』のほうへ」にて

 

“場としての絵画”

“展示されているカンヴァスには何も描かれていませんが、ここには100人程の人びとの接吻が刻印されています。この作品は街往く人に声を掛けることーあるいは特定のコミュニティ単位でーで行われ、現在、アメリカ、メキシコ、イタリア、台湾、スペイン等で行われ参加者は合計で600人を超えています。この試みは、国家や宗教、種族、組織などの大きな単位、グローバルレベルでの分断―例えばブレグジット、国境の壁、難民問題などの状況―とは対照的にも見え、小さな共同体単位でのみ成立する連動/グローバリゼーションの異なるかたちの大きな可能性を感じさせます。また、YouTubeやInstagram等の今日のソーシャル・メディアの行為と類似した点を探すことも可能でしょう。

そしてこの作品の特徴は、このような現代的な側面以外にも、西洋美術史とも密接に関係し、様々な解釈ができるところにあります。例えばこの行為の風景は、キリスト教やロシア正教で見られるイコン(キリスト、聖母などが描かれた絵)への接吻行為と非常によく似ています。しかし、ここには何も描かれておらず、信仰するべき単一の対象もいません。

「ホワイト・ペインティング」はシリーズの通称であり、本作には一点づつ、接吻をした人々の名前が連なったものがタイトルとなっています。”

(『THE EUGENE Studio 1/2 Century later.』配布ハンドアウト(資生堂ギャラリー)より)

 

私たちが「十分敏感であれば」――『ホワイト・ペインティング』に付着した唾液やDNAやウィルス、あるいは埃、微妙な凹凸や傷といったものたちを認識できるとすれば、『ホワイト・ペインティング』外の世界の認識は恐るべきカオスとなっているのではないかということである。全てが高解像度化してく現代の社会環境下(そしてその反動・自己防御としての極端な認識の低解像度化)において、『ホワイト・ペインティング』の作品を基礎づける条件は極めて今日的問いを含んでいると言えるだろう。

長谷川 新(インディペント・キュレーター)「『1/2 Century later.』——コンセプチュアル・アートの場合」にて

 

“例えば、ロトチェンコからマレーヴィチへと――もう一方の側へ赴くことにはどのような意味があるのだろうか。あるいは、いっそうのこと、この両者の間に居座り、それに従って、持ち運び可能「かつ」拡張されたもの、忠実な物質であり、「さらに」情動的に構成されたネットワークから生まれ出たものであるという絵画の超越的な前提を映し出すのはどうだろうか。この問いは、一見すると何の造作もないモノクロームに見える、3枚1組のザ・ユージーン・スタジオの『ホワイト・ペインティング』(2017)の複雑さを告げることとなる。”

“ザ・ユージーン・スタジオの『ホワイト・ペインティング』トリニティの根底に横たわる愛である。モダニズムの以前の偉大さを取り戻そうと模索するコンセプチュアル・アートの皮肉めいた系譜とも、ゾンビの価値の引き下げとも、より旧来的な抽象画とも異なり、シニカルに引き下げるのでもなければ、言葉では表現できない記号として神秘化されてもいない、愛と信仰の2対が結びついたペインティングが存在する。”

ディヴィッド・ギアーズ(オクトーバー誌などに寄稿する批評家)「モノクロームの中の情念」にて